昭和40年08月30日 夜の御理解
ここんところ、毎日熊本からお参りが続いておるんですけど、今日と今日で九日続きました。誰かが参ってくるんですね、二人、三人。今日なんかはまあ(ひろこ?)さんが一人で参ってきましたけれども、とにかく九日間続く。どういうような御神意だろうかと、思うくらいにあるんですね。こんなことは初めてです。今日ひろこさん、参ってみえてから、もう本当に、なるほど、お徳を受ける人は違うと思います。何とはなしに、やはり、神様に高尚がありえるようなタイプの人ですね。
ここであの長男と、まあお取次ぎさせてもらってから、いろいろお話をしとりますが、なかなか、もう本当に、敬服いたします。やはりあの、神様の知恵によって特別に指導を受けておる、そんな感じですね。今日も私はあちらで、どんなふうかね、あの、あなた方のように、こうして神様からいろいろお知らせを頂いて、本当にこんな有り難い事はないんだけれども、何かこの頃少し変わった風にはなっておらんか。
神様から色々頂くと言った様な内容でも、何か気付いて変わった事はないかと私が申しましたら、さあ別にああ変わった事も御座いません。けれども最近はあのう、その日その日の事を頂きますと言う。もう今月今日の事がたっていけば良いという、このあり方になっていっておりますと、今まではいついつ頃はあああるこうと、いわば予言的なですね、もうそれは、半年も先のことを教えて下さったり、そんなことが多かったんですけれども、最近はもう今月今日の事今日の事。
ですから自分で右にしよう、左にしようなんて思うておっても、出来ませんからいつも自分をまあいわば空しゅうして、神様からお指図を受ける、そのことをまあ待っておるような気持ちで実は今日も神様の、お知らせを頂いて椛目に御礼参拝ということになっておるわけなんですね。で私は本当にあの有り難い。例えばああいう一つの特別の霊徳に触れていく人達は、もう一生霊様を拝んでお終いになったり。
一生予言的なことを言うて、らちあかん信心で終わったりいう、言う様な人が多いんですけれども決してやはり、その人の信心の内容というものが高められていくとするなら、それが現れてくる事も神様から頂く事も、いわば高度な事になっていかなければならない。例えて言うならば、小さい子供にはマンガぐらいなもの、ね、いつまでもマンガ的な面白いばっかりの事だけを頂いておるとするならです。
それは、いつまでもあなたの信心が子供だということになるわけ。そうでしょう。ね。もう本当に絵なんかさせようもない。いわゆる難しい。もういわばもうその、小さい字で漢字がいっぱい書けて、書いてあると言った様な、例えば書物でも読ませて頂く様になった時には、もうそうとう学徳も進んでおる時であるように、神様が頂くこともやはりそうであるということ。それでありがたいことじゃ。
それはあんたがいわばもう、そのうそりゃそうですもんね、ここで皆んなあのう、例えば私の方の子供はもう、まだお腹にある時からお名前を頂いておりました、なんて言う様なのを非常に喜ぶ人がある。もう本当に男やらおなごやら言わんといてから、先生お名前下されてと言った様な人がある。そしてもうお名前頂いたら、もうちょっと親先生もう見通しで、もう男の名前を頂いとった。
女の名前を頂いとったと言うて私はもう、そういう時には聞くとがせからしかけんで神様に直接お伺いするです。男じゃったの、おなごじゃったの。けどそう言う様な事がです、ま言うならば、まあ有り難いことではあるけれども、まあいうならばたわいない事。ね。そういうようなことに例えば、有り難い有難くないと言った様な事を言っておる間はほんなこっちゃあない。ね、
どこまでも教えを頂いて、その教えが身に付いて、自分の信心が成長するにしたがって、頂くこともだんだん高尚な事が頂けるようにならなければ、私、信心が成長しておるとは思われない。そこんところをひろこさん、ようといつも焦点をおいて、頂く事が同じような、ああ、例えばケースでね、頂いておるとするなら、自分の信心がこりゃおかしいぞとこう思うて、信心を高めていかなければ、そのいわばその霊徳だけでは値打ちがないぞと言うて、まあ話した事でございますがね。
どうでしょうか皆さんの、皆さんも椛目ではあ御神夢を頂く人がある、御神眼を頂く人がある、それが私は3年前も今日も同じようなぐあいに頂いて、例えばそのマンガの本を頂きおるような感じでの、もしお知らせであったりするなら、それはやはり信心を人の御理解じゃないけれども、踏ん切りをつけるところはつけさせて頂いての信心に飛躍しておかげを受けていかなければならん。
これは自分の信心の、どういう状態になっておるだろうかという時には、自分の心の中に自問自答してみて「信心すれば一年一年有り難うなる」と仰るが、はたして一年一年有り難うなっていっておるだろうか。それはもう信心の奥の進め方と、進んでいくその過程というものはだから、どこが本当でどれが嘘という事はないけれども、自分でそれは感じれる所までひとつ進んでいかなきゃあいけん。
よくまあ例にお話します、あの日蓮の日蓮ではありません、親鸞上人が妻帯しまたはあのう、生草木を食されると言った様な事なんかでもです、あれは親鸞であって出来る事当時あのぼんあの例えば、様な真似がです他の者ではできん、親鸞の信心のいわば神髄にいわば触れて、初めてそれがなされる。これ仏教でいくなら精進は形の上においても心の上においてもしてし抜かなければやはり本当じゃあないとこう私は思う。
ですから例えば師匠が、生草を食べられたからというて、弟子がそれを食した時に、もうすでにそのう破門されたと言った様な話が残っておりますように、だから勿論あの、親鸞の頂いておられる、先にもっともっと、本当の事があるでしょうけれどもです、例えて言うならば、金光様なんかはもう一生精進しぬかれたという感じですね。私共生身を持っておりますからもう非常にその信心が乱れてくる。
信心が乱れてくるんですけれども、なら私の心の中にやはり私の信心の、私の感度で私が感ずる、私が有難いというものをそのそがれない、私の有難いというものがそれによって揺るぐような事のないような場合がある。例えて言うならば、長女が昨日も言ってましたんですけれど、ある教会やらせていただいて、もうそこの先生が非常に行儀が悪い。はあもう、腕をこうまくってから。
下はもうステテコもはいてなかとに袴をこうはぐって(?)の上にこう足を上げちから寝てから、丁度私のごたるなあて思うちから思うわけなんです。だからこりゃそのう、豊美がよその先生だけが(ろくそうに?)見えたもんじゃなくて、やっぱり私共でもやっぱりそうだろうこう思うんです。けれどもそのそこに、まこりゃ今日の御理解がこんな御理解ですから、まあその例えですけれども、ね、
私の場合は(ろくそう?)な先生だろうとも、人に感じさせなければ、私自身もそれで心を汚せておる事はない、例えばあってもですというように、もし私があるとするならばです、私の信心はいその先生より私の方が、まあいわば段違いということになるんです。椛目の先生はどうして、ろくそうなかじゃろうかっちってから、皆が参って来た者がいうごとあるならばです、やっぱその先生と同等なんです。
こりゃもう内容においては、私の心の中にです有り難いというものを、ならいつお(?)がひっくり返っておってもです、ね、いつでもその場ででもお取次ぎができれる体制というものは、私の心にもしあるとするならば、それは私はそういう、そう言う所がですね、例えば金光様あたりにはおありにならなかったんですね。その点はもう私共のいわゆる真似の出来んちゃあそういうこと。
私共はまあ昼までは一生懸命頑張らせて頂いておるんですけれども、午後んなったらそういうようなまあ、楽な慎みのない、いわば半日を過ごさせて頂くので御座いますけれども、それとてもです、やはり親先生でなからなきゃあならんという人が出来て来て、参って来た時には、いつでも私お取次ぎのできれるだけのです、体制だけは崩さないつもりで私はおるんです。
けれどもそれがどういうふうに崩れていくかそりゃあ分かりません、生身ですから。ね、こういうところに、これ私自身がです、私はまあそりゃあ、大変な表現ですけれども、私が神様にどれだけの御信用を受けておるかという一つのテストでもあるのです。例えば、銀行がどんどんどんどん金を貸してくれる、ね、もう自分のうえに銀行がいったいどこまでギリギリ貸してくれるじゃろうかと、試しに精一杯借ってみろう、そんなものが私の中に確かにあるんです。ね、
もう大坪、お前にこれから先はやれんぞと仰る、そこんところがあるだろう。ね、そこからまた私の信心は新たに飛躍していくだろうというふうに、まあ感じているんですけれども、これは皆さんが真似をなさっちゃあいかんのですけれども、ね、だからその内容に触れずして、もう形にだけにで、例えば真似をしてはならん。こりゃ特にここで今修行しておる方達は特にそうなんです。
ほうで私今日は思うた。この頃( ? )ですね、私はもう横になると言った様な事はもう絶対しなかった。もうどうかなからなければしなかった。この頃は午後まあこりゃあ私の思い過ごしかもしれんけれども、長男が帰って参りましてから、長男が奉仕しておる時が今一番真剣ですから一番安心ができる感じがするんです。だから長男がここに奉仕をする2時間だけを、私横にならせて頂くことに最近決めておる。ね、
それでもまあ足を揉んでもらったりなんかしてますから、休むのはやっぱり1時間ぐらいじゃないかとこう思うんですけれども、今日は私休んだと思うたら、もう、い、あの、ある人が参って来た。
そして起させて頂いたから、ははぁこれはもういわば、贅沢な一眠り行ですけれども、まあ、そういう意味合いにおいての一眠り行をさせて頂こうと今日は思うて、今日はまあ休みませんでした。ね、そういう風に確かに私は、私なりに精進はしておるんです。そりゃ昔はそんなことじゃなかったですね、そりゃあもう一日中がそれこそ、そういうようないわば、本当に厳しい修行をさせていただいた。
横にもならんても、眠かってもそりゃあ、あの長うなってどん寝ようって言う様な事は全然なかった。けれども、まあいうならばそれだけ、神様から私はまあいうならば、信用それだけは受けておる、それだけは貸していただけれるという感じがするんですけれどもね。まあここんにきが私の現在の限界のように思います。お互いが自分の信心というものをいつも叩いて見なければいけません。
私今日、そんな事を思うてから御祈念させて貰いおりましたら、あの金の金箔でこう塗り上げた太鼓を頂くんですよね。正面の方だけはきらきら光ってる、後のほうは剥げておる。ね、神様がまあいうなら、ある程度の所を頂きますとです、もう表面から分からんようにちゃんと叩きなさらん。私だけしか分からん所を叩きよんなさる。だから上の方は剥げておるけれども信者さんには見えん、皆んなには見えないという、ね、
いうふうに、まあそう言う様な意味で顔を立てて下さる場合もある。しかしこの顔を立てて下さるという事は、そのまま神様のご信用なんですね。だからどこまで顔を立てて下さるだろうかと。今日はまあギリギリの私の話なんですけれどもね。まあ、皆さんの信心も、一つ色々考えてみて、どこまで自分の信心が神様から許されておるだろうか、ね、どの程度自分の信心が高度なものになっていっておるだろうか、頂く事そのことが、おかげそのものがだんだん品質が変わってきた。
例えば私がいつも言います、着物なら着物でもです、ね、始めは木綿もんの、いわば中古のようなものが集まってくるかと思うたら、(めいせん、めいせんが集まってくればきんせん?)、そしてこういうのはどこどこの、もうこれは芸術品だといわれるようなものが集まってくるようになる、と言う様にです着物、身につける着物なら着物だけでも自分が頂いておる度合いというものが分かるはずなんです。勿論自分が求めて買うてくりゃあどんなもんでも買われますけれどもね。
求めずして神様が与えて下さるものによって、自分の信心の程度という事を知ることができます。だから愈々おかげを頂く人はです、たとえ謹撰の着物が着れるものを頂いておってもです、ね、木綿物でやはりその、過ごしておられると言う様な方達も、だからあるわけなんです。こげんとはもう( ? )できるようなおかげになるでしょうね。私共そういうところもやっぱ考えておる。
どうでも一つ、お互い、自分の信心がどういう風に進んでいっておるか、ね、また自分がどういうようなおかげによって有り難いと言うておるか。どのおかげでも有り難い、このおかげで有り難くないことはないけれども、ようは、マンガのような本を頂いて有り難いと言うておるか、少し難しい、いわば小学校、中学校程度の、者が読む程度の本を頂いてから、有り難いと思うておるか、難しいと思うておるか。
そういう事によってでも自分の信心を知ることができると思うです。やはり、自分の信心を、そしていろんな、まあ、方法を持って知る事も、信心の進めていく楽しみの、ものでも私はあると思う。十年前も今日も、思うておることも、物の見方も考え方も、心に頂いておるその信心の喜びも同じであるとするならです、こりゃあ、いち、一奮発させてもろうて、そこんところを卒業しなければいけないと思うですね。
どうぞ。